上魚町(かみうおちょう 現在の金座町)
金貨を鋳造する「金座」のあったまち
家康公の大御所時代、中央の通り(茶町通り)の南側を室町幕府から御用金匠(金細工職人の長)を務めてきた後藤家の庄三郎光次(※1)が拝領し、金貨(小判)の鋳造を始めたのが「駿河小判座(金座(※2))」でした。
(※1)ごとうしょうざぶろうみつつぐ:駿河小判座の御金改役(責任者)。家康公に聡明さを認められ、政治・経済・交易等の分野で活躍。後に家康公の命により江戸に赴き、金貨の鋳造に携わった。
(※2)江戸幕府から大判を除くすべての金貨の鋳造を独占的に請け負った貨幣鋳造組織のことで、金貨鋳造のほか通貨の発行という、現在の中央銀行(日本銀行のこと)に相当する役割を担っていた(「日本銀行静岡支店資料」より)。
駿河小判座は、慶長17年(1612)に江戸へ移され、江戸の小判座(後に金座と改称)に統合されました(現在その場所には日本銀行本店があります)。
金座稲荷社
地内を通る茶町通りの道幅はわずか9尺=2.7mしかなく、雨の日に傘を回すと両側の店頭に雨粒が飛び散るくらいでした。その狭い道沿いに魚屋・乾物・青物屋などのあらゆる日用品の商店が密集していて、さながら「流通センター」のようだったそうです。
特に「お日待ち」といって、夕方から一晩中酒宴を催しながら、翌朝の日の出を拝むという宗教行事の日は特に大賑わいでした。
また、明治30年代後半から安西や神明町、若松町、北番町には製茶再製工場が横浜や神戸方面から移ってきたので、茶町通り近辺は製茶の運搬もひっきりなしの賑わいとなっていました。
しかし明治41年(1908)11月に地内から出火し16戸が全焼したのを機に、明治43年(1910)に5.4mに拡げられ、大正11年(1922)さらに14mに拡幅され、市内で初めて車道に歩道がついた道路になりました。ちなみに現在の道幅は16mです。
茶町通り沿い 上魚町の町並み 四足町、呉服町一丁目方面
上魚町は昭和3年(1928)11月10日に昭和天皇即位を記念して金座町と改称され上魚町の町名は消滅しましたが、それ以後も「かみんたな(上の店)」と呼ばれていました。
上魚町と茶町の境の町並み 研屋町方面
●こぼれ話●
金座は駿河のほか、江戸・京都・佐渡にも開設されましたが、京都と佐渡の金座は江戸金座の出張所という位置付けでした(駿河金座は1616年頃廃止)。
慶長小判は江戸座・京座・駿河座の3カ所で製造され、小判に印字された「光次」の位置がそれぞれの座で若干異なるといいます(「日本銀行静岡支店資料」より)。
家康公は全国で統制されていなかった貨幣を「金・銀・銅」で統一し、通貨としての役割を確立しました。
金座跡