新通(しんとおり 現在の新通1,2丁目・駒形通4,5丁目)

慶長の町割りで新しく造られた「東海道」

慶長14年(1609)の町割りは、現在の本通筋に替えて、幅5間(約9m)の東海道の新しい道筋が100メートルも離れていない南側に設けるものでした。その新しい通りに沿って町並みが形づくられ「新通」という城下町のひとつが生まれました。

 

本通筋から新通へのルート変更には、西国の外様大名もひれ伏す視覚効果があったと伝わります。江戸へ向かう旅人や西国大名の行列が東海道となった新通を歩くと、正面に富士山をバックに天守閣が燦然と輝く駿府城が見えたはずです。そこに立ったすべての人々が、東海道を進むごとに富士山と天守閣が大きく迫ってくるような視覚効果に圧倒されたのではないでしょうか。

江戸幕府初期のまだ政情不安なこの頃、家康公は計算し尽された慶長の町割りという完璧な都市計画によって自身のカリスマ性と徳川家の権力を見せつけ、大名たちの反乱を未然に防ぐ目的があったのではないかと考えられています(東海道駿府城下町(上)-東海道中核都市の誕生-「東海道と駿府城」より)。

新通川越町地内、西見附付近 現代では残念ながら富士山は見えず

 

新通川越町から直線道路の旧東海道 新通りが続く 新通七丁目方面

 

当時は現在の新通1丁目が一~五丁目に、そして新通2丁目が六・七丁目に分かれていました。

新通二丁目は町づくりに伴って上大工町の大工が移り住んできたことから新通大工町(または新大工町)という別の町名でも呼ばれていたようです。

三丁目の境には「仏心小路(ぶっしんこうじ)」と呼ばれる小道がありました。由来はその辺りに仏師(仏像彫刻師)が住んでいたので、仏師小路が訛って仏心小路と呼ばれるようになったもの、または三丁目にあった仏心山善養寺という寺の山号に因んだともいわれています。寺の跡に「仏心小路の学校」(静修舎の新通分教室)が建ちましたが、それが静岡第四尋常小学校として現在の川辺町へ移り、さらに移転して新通小学校となった(『しずおか町名の由来』より)ということです。

新通四丁目の秋葉神社 本殿が2階というのが現代的

 

新通五丁目に鎮座する伏見稲荷神社

 

直線を進んできた新通一丁目から右折して梅屋町へ

 

文化4年(1808)12月20日午前2時頃、新通大工町から出火した火災は西南の強風に煽られ、新通一丁目から梅屋町、人宿町一~三丁目、七間町一~三丁目まで延焼、寺町一~二丁目、上石町一~二丁目も灰と化しました。火の勢いは更に増し、両替町全町全焼、札之辻町と呉服町二~六丁目、江川町、紺屋町、新谷町から伝馬町、花陽院門前町、八幡小路、鋳物師町まで廃墟となりました。駿府城下約4,200戸の内1,879戸が火災に見舞われ、城下の45%が延焼するという駿府火災史上最大の被害となりました。この火事で町奉行屋敷や両替町三丁目に設置されていた「時の鐘(分時鐘)」までもが被災しました(『静岡市史 近世 第四編 駿府及びその周辺の諸事相』より)。
この火事のために寺町には御救小屋が町奉行によって設けられたそうです。

昭和41年に一~四丁目の全て及び五丁目が新たな新通1丁目、五丁目残部が駒形通4丁目、六丁目の一部が駒形通5丁目となり、昭和45年に六丁目~七丁目が新通2丁目となり、新通川越町・安倍川町の一部が2丁目に編入されました。。