安倍川町(あべかわちょう 現在の駒形通5丁目・新通2丁目・川越町)

日本の歓楽街の始まりとなったまち

駿府城の南西にあたる東海道往還の新通七丁目から小路を少し南に入ったところに位置した町です。安倍川の渡しの近くに町があったことから安倍川町となったと『駿国雑志』は伝えています。かつては「阿倍川町」とも書きました。

安倍川町は東海道有数の歓楽街で、廓内には旅籠町・新町・揚屋町・上町・中町の5町がありました。慶長12年(1607)、鷹匠として家康公に長年仕えてきた伊部勘右衛門(いべかんえもん)が辞職を願い出た際、褒美として1万坪の土地を貰いました。もともと、この地には今川時代から南蛮寺(キリスト教会)がありましたが、キリシタン禁教令発布の際に取り壊されました。

その空き地を含めた土地を家康公が伊部勘右衛門に与え、伊部がここに業者を集めて歓楽街としたことが町の起源となっています。当時、駿府では女性の奪い合いが絶えず、切腹沙汰にまで発展するなど家康公の頭を悩ませていたのが背景にありました。
元和2年(1616)に家康公が没すると大名や旗本が江戸に引き揚げました。この時三町が江戸の吉原に移り、安倍川町には二町を残したため、安倍川町は別名二丁町として知られるようになったといわれています(『駿国雑志』より)。または七町あって五町が吉原に移ったともいわれています。

当時から地内にあった稲荷神社(終戦後再建)

 

双街の碑 双街とは二丁の町という意味で二丁町遊郭を指す

 

天保13年(1842)の『安倍川町絵図』には、小松屋・信濃屋などの遊郭の名前があり、揚屋町通り・上之町通り・中之町通りといった道が描かれています。安倍川町の周りは藪と塀で囲われ、上之町通りと中之町通りには2ヶ所しか扉を設けず、遊女たちが簡単に外へ抜け出せないようにしていました。

安倍川町の遊郭は幕府公認のものとしては江戸の吉原より古く、日本の歓楽街の始まりと位置付けられています。江戸時代から明治・大正・昭和と続いた駿府・静岡の文化醸成に影響を与えた町であるといえます。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも弥二さん喜多さんが安倍川町を訪れるというくだりがあり、その賑わいが描写されています。明治時代には慶喜公もお忍びで訪れていたそうです。

また詩人の北原白秋が作詞した「ちゃっきり節」が生まれたのも安倍川町の遊郭小松楼の芸妓 〆吉(とめきち)の何気ないつぶやきからでした(静岡鉄道ホームページ「ちゃっきりぶし誕生秘話」より)。

昭和初期まで町は旧態を保っていましたが、昭和20年(1945)の静岡大空襲と翌年の公娼制度廃止により建物は完全に消滅し、昭和41年(1966)に町の大部分が駒形通5丁目へと改められ、同45年(1970)残りが川越町・新通2丁目に編入され、安倍川町の町名は消滅しました。

平成元年(1989)、旧安倍川町の一画に静岡県地震防災センターが建てられました。

旧安倍川町の一角に建つ静岡県地震防災センター(現 葵区駒形通5丁目)

 

●こぼれ話●

家康公の「キリシタン禁教令」は、慶長18年(1613)に発布されました。

正式名は「伴天連(ばてれん)追放之令」。キリスト教信者が家康公の周辺に多数いることが発覚し、家康公の命により多くの信者が捕らえられ、棄教しない信者たち千人余りが安倍川の河原にあった刑場で処刑されました。この時、安倍川から流れ込んだ血によって桔梗(ききょう)の花の色のように染まった支流が桔梗川と名付けられました。

昔の町名が残っている「安倍川町公園」

 

駿府キリシタン聖堂跡の碑(安倍川町公園内)

 

安倍川町公園にはキリシタン灯籠もあります