上桶屋町(かみおけやちょう 現在の上桶屋町)

桶職人は一目置かれる職業でした

江戸時代の地誌『駿河記』などによると、町名は当時この場所で桶屋業が営まれていたことに由来するようです。家康公が駿府在城の頃、林惣右衛門という桶職人の棟梁が上桶屋町に居住しており、駿府城内で使用する桶を作っていました。『駿国雑志』にも、「家康公が駿府城にいらした時、桶屋惣右衛門という者がここに住んでおり、城内の桶御用を務めたので町名となった」とあります。惣右衛門の子孫も代々桶職人の棟梁を引き継ぎ、駿府城内の御用を務めたことから、この町ではほとんどの公的な負担を免除されていました。桶屋惣右衛門が丁頭の頃は町内36戸のうち、惣右衛門を含め桶屋が8戸、米屋2戸、鍋屋2戸、糠屋1戸、萬家1戸などで、やはり桶職人が圧倒的に多く住んでいました。

上桶屋町と土太夫町の境の町並み

 

町名の由来についてはもう一説あります。今川時代に家康公が戦いに敗れこの町まで逃れてきたとき、道端で桶職人に桶の中に匿われ一命を取り留めたことがあり、駿府城に入った際にこの桶屋に桶の納入を命じました。その頃「茶町三丁目」だったこの町をお上に桶を納める町として「上桶屋町」としたというものです。

天保13年(1842)に作成された「上桶屋町絵図」をみると、長さ約五十間(約90m)、幅四間(約7.2m)の街路をはさんで、東側に30戸、西側に16戸の家が立ち並んでいました。うなぎの寝床のように間口に対し奥行きが深い、当時の城下町に共通する特徴を持った町並となっています。

上桶屋町の町並み 茶町方面

 

●こぼれ話●

桶は古来よりお酒をはじめとして、醤油や味噌の醸造に欠かせない容器です。桶の語源は「おのけ」。苧(お=麻のこと)を入れる器である笥(け)のこと、つまり「おのけ」=「おけ」です。

現在一般的に桶と呼んでいる寄せ木造りの桶は、正式名を結桶(ゆいおけ)といいます。当時は杉などの薄い板を円形や楕円形に曲げて、桜や樺(かば)などの皮でとじ合わせて底を取り付けた「曲げ物・曲げわっぱ」の技法を用いていました(ミツカン機関誌『水の文化』63号桶・樽のモノ語り「江戸時代の日本を支えた桶と樽」より)。

結桶は、鎌倉時代末期に作られはじめ、室町時代以降の酒造業や醸造業などの発達とともに広まりました。江戸時代には人々の暮らしはもちろんのこと、様々な産業にも欠かせない道具となりました。当時は風呂桶の職人は風呂桶を、お櫃職人は櫃を専門で作っていて、なかでもお櫃を手掛ける職人は、米が神聖なものであったこと、また練達な技量が求められたこともあり、一目置かれる存在だったようです(『和樂web日本文化の入り口マガジン』より)。

桶などの曲げ物は井川メンパの原型です(静岡市ホームページより)