四足町(よつあしちょう 現在の中町)

「四足御門」の門前にあったまち

四足町は駿府城の四足御門の前に位置する町でした。四足御門は諸大名が家康公との謁見の際に通る門であり、家康公を護る武士団の出入口にも使われていたといわれています。葵区中町の静岡市立病院側バス停の先に石垣が残されています。この周辺は当時の東海道のメインストリートでした。

駿府城四足御門址の石垣

 

「四足」の由来は、「今川館の四脚門(※1)があった」「古代駿河の国府(※2)の四脚門があった」等々、諸説あります。寛永3年(1626)には本通四足町という呼び方も残されています(『徳川家康と駿府城下町』より)。古地図には町名を「四ツ足町」と記しているものもあります。

(※1)四脚門と呼ばれているが実際は6本の柱があった。中心に本柱(ほんばしら)と呼ばれる2本の太い柱があり、その前後にやや細めの4本の控柱(ひかえばしら)が立つ。本柱は丸柱、控柱には角柱が使用されていた。

(※2)国ごとに置いた国司(朝廷が諸国に赴任させた地方官)の役所のこと。現在の県庁的存在。

石垣に取り付けられている駿府城四足御門跡の説明看板

 

県庁東館に向かう道路の歩道には、駿府城大手門の礎石(建物の基礎・土台となる石こと)跡が表現されています。正方形に配置されたグレーのブロックが礎石の跡を表しており、片側に3カ所ずつ合計で6本の柱が立っていたことが分かります。

大手門の礎石の位置を表すグレーのブロック

 

また、家康公駿府在城時、大坂の豪商で三町人の一人であった尼崎又右衛門が家康公に召されて当町に屋敷を構えたことから、四足町から馬場町へ曲がる5~6軒を尼ヶ崎町と呼んだこともあります。今でも地内に尼ヶ崎稲荷神社があるのは、その町名の名残と言えます。

尼ヶ崎稲荷神社

 

尼ヶ崎稲荷神社の鳥居に掲げられている扁額(へんがく)

 

現在、呉服町1丁目に位置している静岡天満宮は、慶長12年(1607)頃は「四足天神」とも呼ばれていました。

静岡天満宮 主祭神は「学問の神様」として知られる菅原道真公。

 

「四足」と言うと、4本足の獣を連想して嫌だという住人たちの声を受け、大正4年(1915)に「中町」になりました。中町の町名は「静岡市の中央」ということから名付けられました。