上横田町(かみよこたまち 現在の日出町・横田町・鷹匠2丁目)

律令時代に「横田駅」があったまち

上横田町は駿府城の東部に位置し、東海道府中宿の一画を構成していました。下横田町と同じく平安時代から「横田」の地名は存在しており、京都に近い当町を「上」としました。

律令時代の東海道には約16㎞毎に駅(※1)が置かれていました。10世紀に編纂された『延喜式(えんぎしき:律令の施行細則)』によれば、当時の東海道には西の小川駅(現在の焼津市小川)と東の息津(おきつ)駅(現在の清水区横砂あたり)の間に駿河の「駅家(えきか)」として横田駅が置かれていたと記されており、この周辺が古くから交通の要所であったことが窺われます。

(※1)駅家(えきか/うまや)とも言う。古代の駅伝制(えきでんせい:交通・通信制度)により、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に設置された施設。駅には人馬の食料や休憩・宿泊の施設も整えられ、駅鈴(えきれい)(※2)を持った役人が駅に到着した際は、乗り継ぎの馬や案内の駅子(※3)(えきし)を提供した。駅伝制は10~11世紀にはほとんど衰退し、代わって旅宿・運送業者を調えた民間の宿・宿制が発達していった。

(※2)公務出張者や公文書伝送者に駅馬を使用する資格証明として貸与された鈴のこと。

(※3)駅に配置された人夫で駅の諸業務に従事していた。

上横田町の町並み 鋳物師町方面

 

上横田町と院内町の境の町並み

 

平安時代からの横田郷は、今の「上・下」の区別が無く大きな町であったと思われ、今川時代にその一部に猿屋町と院内町が割り込んできて分断されたと考えられています。また、鋳物師町及び花陽院門前町も古くは横田町であったと言われています。『駿河志料』によれば、古くは町内に浅間神社へ続く道があったと記されています。

上横田町の町名は江戸期から昭和20年(1945)まで使用されていましたが、昭和20年に日出町・日吉町・横田町1丁目に分割・新設され、上横田町の町名は消滅しました。

上横田町の町並み

 

昭和45年(1970)住居表示変更により横田町1丁目は横田町になりました。同年、編入により日吉町が鷹匠2丁目となり、日吉町の町名も消滅しました。

鋳物師町境から見た上横田町の町並み