梅屋町(うめやちょう 現在の梅屋町)
由井正雪自害の舞台になった本陣 梅屋
駿府城の南西方向に位置する町です。慶長14年(1609)、駿府城下町の整備に伴い東海道筋が本通りから新通りに移されたことによって、東海道に面することになりました。七間町から続く町で、横七間町とも呼ばれていました。慶安(1648~52)の頃まではこの近辺に旅宿を営んだ者が多くおり、問屋場や本陣もあったといわれます(『駿河国新風土記』より)。
町名は、慶長の初め、旅宿を営み本陣と称していた梅屋勘兵衛が居住していたことに由来します。梅屋勘兵衛の父 作右衛門は、家康公が浜松に居た時代に梅を献上したことから、梅谷(梅屋)を名乗るようになり、家康公が駿府に入るときに同道し、のちの梅屋町の地に町屋を賜りました(進士慶幹 著『由比正雪』より)。
梅屋町の謂れ
梅屋町の町並み
梅屋の本陣は慶安4年(1651)に江戸幕府転覆を目論んだ軍学者 由井正雪(※1)の「慶安の変」(※2)が露見した地でもあります。正雪は計画実行に向け密かに行動していましたが、密告により計画を知った幕府は正雪捕縛に動きました。駿府に到着した正雪が梅屋の本陣に宿泊していたところ、捕方に取り囲まれその場で自害したのでした。
梅屋勘兵衛は謀反人を泊めたという罪で家財を没収されたうえ追放処分となり、江尻宿(現在の静岡清水区の中心部)に移りました。梅屋勘兵衛の墓は、本通6丁目の長善寺にあります(進士慶幹 著『由比正雪』より)。
(※1)由井正雪については「㉕宮ヶ崎町(みやがさきちょう)」に記載。
(※2)初期の江戸幕府は大名の取り潰しが頻発し、巷に放り出される浪人が急増した。由井正雪は浪人たちに生活の場を与えようと倒幕を企てたが、密告によって計画は失敗に終わった(進士慶幹 著『由比正雪』より)。
昭和20年(1945)の区画整理により、寺町一、二丁目のほか周辺の町の一部を編入しました。
本通6丁目の長善寺にある梅屋勘兵衛の墓
墓隻に刻まれた「梅屋勘兵衛墓」の文字
●こぼれ話●
現在西草深町にある日本基督教団静岡教会は、梅屋町にとても深い関わりがあります。民俗学者の山中笑(やまなかえむ)(※3)は、明治7年(1874)カナダ出身の医療宣教師デイヴィッドソン・マクドナルド(※4)から洗礼を受けました。
明治11年(1878)、笑は梅屋町に講義所(教会のようなもの)を開き、伝道を開始しました(『明治キリスト教の流域』より)。これが、日本初のメソジスト教会(キリスト教の宗派の一つ)とされています。
(※3)嘉永3年(1850)徳川家御家人の子として江戸に生まれ、明治元年(1868)に慶喜に従い静岡に移った(『明治キリスト教の流域』より)。別名 山中共古(きょうこ)。
(※4)カナダのウェスレアン・メソジスト教会から日本へ派遣された宣教師。当初は横浜や東京での伝道活動をしていたが、明治7年(1874)来静。藩校の静岡学問所の後身である私立学校「賤機舎(しずはたしゃ)」で教鞭をとった。山中笑を含む11名がマクドナルドから洗礼受け、「静岡バンド」という伝道師集団が誕生した(『明治キリスト教の流域』より)。
令和3年(2021)10月に取り壊された旧会堂 新会堂は令和4年(2022)11月竣工予定