安西町(あんざいちょう 現在の安西1~5丁目・八千代町・柳町)

「安」倍川の「西」にあるから安西町

「安西」の由来は、市の中央部を流れていた安倍川の西に位置していたから、または古代の安倍市(あべのいち)の西側に位置していたからなど諸説あり、古代の東海道であったともいわれています。

安倍川を藁科川に合流させるため、駿府御囲堤(すんぷおかこいづつみ、別名薩摩土手)(※1)が築かれ、土手の内側に開墾された場所が町となりました(『しずおか町名の由来』より)。

明治になると安倍川・藁科川流域の茶の集散地として再製茶工場・茶問屋などが多く集まり、茶町や北番町などとともに「お茶の出どこはヨー 安西・茶町ヨー」と歌われたほどのお茶の町となりました。

(※1)慶長11年(1606)頃、家康公の命により薩摩藩の島津忠恒(しまづただつね)が築堤した。築堤の目的は大洪水から城や町を守るためとも、駿府城を敵に奪われた際に土手を切って水攻めにするためともいわれている。土手は賎機山(しずはたやま)、現在の葵区井宮町妙見神社下から駿河区中野新田までの約4.4キロメートルにわたり駿府城と城下町を囲うように築かれていたが、現在は約700メートルが残されるのみで、国土交通省が管理している。(『東海道駿府城下町』(上)より)。

薩摩土手

 

安西は一丁目から五丁目まであり、今川時代は一丁目から二丁目が中心部でした。寛永年間(1624~44)の記録によると、安西一・二丁目は「本安西町」(ほんあんざいちょう)といわれていたようです。『駿河志料』によると藁科山中からの出口となる防衛地で、今川時代より武士の居住地でもあったといいます(『徳川家康と駿府城下町』より)。

茶町通りと安西通りが交差する安西二丁目は、お茶や木材の取引のため各地から訪れる商人で賑わいました。

静岡鉄道静岡市内線は、大正11年(1922)に静岡清水線の一部として静岡駅前~鷹匠町間が開業し、昭和4年(1929)に安西駅まで延伸しました。安西・茶町などに立ち並ぶ製茶問屋から清水港へ輸出用のお茶を、清水港からの戻りには石炭を輸送する目的で整備されたそうです。昭和37年(1962)全区間が廃止となり、今ではその面影もないことが残念です。

コンビニ駐車場が静岡鉄道市内線の終点 安西駅跡地

 

寛永年間(1624~44)、二加番屋敷(※2)が安西三丁目に設置され「安西加番」とも称されていましたが、慶安4年(1651)の由井正雪(※3)の反乱「慶安の変」の後、四足御門(※4)前に移されました。

(※2)加番屋敷については、「㉖上・下草深町(かみ・しもくさぶかちょう)」に記載。

(※3)由井正雪については、「㉕宮ヶ崎町(みやがさきちょう)」に記載。

(※4)四足御門については、「㉒四足町(よつあしちょう)」に記載。

安西三丁目に並ぶ製茶問屋さん

 

地内には寺院が多く、四丁目には現在も曹洞宗大林寺があり、境内には駿府町奉行だった落合小平次道次の墓があります。落合は元和2年(1616)1月21日、家康公が藤枝で鷹狩りのあとで倒れた際、将軍秀忠に知らせるため江戸城までの12時間を早馬で駆け抜けた旗本です。

後に駿府町奉行となっていた落合は、慶安4年(1651)由井正雪による慶安の変が起きた際、駿府梅屋町の本陣 梅屋いた正雪一党の召し捕りを指揮し、正雪以下8人を自刃させ、1人を捕縛する功を挙げ、13年間の長きにわたり駿府町奉行を務めました。

大林寺にある駿府町奉行 落合小平次道次の墓

 

安西五丁目は安倍川内堤(薩摩土手)と外堤とに囲まれた地で、慶長~寛永年間(1596~1645)は、安西建穂口(あんざいたきょうぐち)などと呼ばれました(『駿河国新風土記』より)。また、寛永のころより車町から牛飼い達が移住してきて物資輸送を一手に担っていましたので、五丁目は牛町・牛屋町とも称しました(『駿国雑志』より)。

昭和33年(1958)安西五丁目と弥勒(みろく)の間の薩摩土手が削られ、地元小学校の発案で命名された、幅20mの「さつま通り」が完成しました。

さつま通り 安西四丁目方面