新通川越町(しんとおりかわごしちょう 現在の川越町・新通2丁目)

正直者の川越人足が住んでいたまち

本通川越町・堤添川越町と合わせ三川越町(川越三町とも)と呼ばれた町の一つです。

新通川越町は駿府城下町の西の入口、新通り沿いにあり、東の入口横田町に東見附があったように、地内に西見附がありました。『東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず)』に新通川越町の西の端に見附の桝形(ますがた)が描かれています。

前出の本通川越町同様、安倍川の川越人足が多く居住していたことが町名の由来です。家康公が安倍川を渡って鞠子方面に向かう時には必ずこの町の川越人足を使ったといいます。

新通川越町の町並み 西見附跡から府中宿方面

 

西見附跡から弥勒・安倍川方面

 

この町にはある川越人足の美談が残っています。旅の途中で安倍川に差し掛かった紀州(現在の和歌山県)の旅人が川越賃が高いと感じ、自分で川を越えることにしました。旅人は濡れないように着物を脱いだ際、150両もの大金が入った財布を落としたことに気づかず、西に向かって歩いて行ってしまいました。このお金を拾った川越人足は宇津ノ谷峠(現在の静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境)まで追いかけ旅人に渡しました。

歌川広重による宇津ノ谷峠の浮世絵

 

旅人は喜んで礼金を渡そうとしましたが、人足は「拾ったものを届けるのは当たり前」と言って受け取りません。困った旅人は、駿府町奉行所に届け出ました。奉行は川越人足を呼び出して礼金を渡そうとしましたが、彼はそれでも受け取らなかったので、奉行の裁定として礼金は旅人に返し、あらためて奉行からこの川越人足に正直者としてほうびを出すことにしました。これには両者納得して一件落着したというお話です。

当時、宮ヶ崎町の硯屋惣次(すずりやそうじ)という人が書き留めた『硯屋日記』によると、その川越人足の名は「喜兵衛」といい「かわら川越」(新通川越町)に住んでいたとあります。

昭和4年(1929)静岡県と和歌山県の子供たちが中心となり、この美談にちなんだ碑を建てました。その碑は安倍川の手前の弥勒に「安倍川の義夫の碑」として建立されています。

安倍川の義夫の碑

 

安倍川の義夫の碑 説明看板

 

天保13年(1842)の『新通川越町絵図』によると、町の長さは91間余(約107m)、戸数65戸の内、川越人足は43戸でした。川越人足を務めるので駿府九十六ヶ町の年行事は赦され、火消人足のみ負担しました。

昭和7年(1932)川辺町の一部を編入しました。昭和45年(1970)新設された川越町、新通2丁目に分割編入され、新通川越町の町名は消滅しました。