西寺町大鋸町(にしてらまちおおがまち 現在の大鋸町)

慶長の町割りでできた2つのまち

大鋸町は、この地に木挽き(製材)を職業とする人達が住んでいたことから名付けられました。江戸時代末期に編纂された地誌『駿河国新風土記』の「大鋸町」の記述に「大鋸町と名づくるは木挽を生業にする者の住める所を以てなり」とあるとおり、家康公の駿府移住とそれに伴う駿府城の改修のため、諸国の職人たちを集めて住まわせたのでした。

西寺町 大鋸町の町並み 大工町方面

 

西寺町は、慶長の頃に寺院が集まってできた町名です。玄忠寺(げんちゅうじ)、西福寺(さいふくじ)、長善寺(ちょうぜんじ)、仏願寺(ぶつがんじ)、専念寺(せんねんじ)、浄国寺(じょうこくじ)、養国寺(ようこくじ)、浄光寺(じょうこうじ)、候福寺(こうふくじ)などの寺院があり、現在の常磐公園近くの寺町に対して西寺町と名付けられました。

西福寺は了伝という50人力の和尚が、門の閂(かんぬき)を振り回して家康公を敵軍から守ったことから、家康公が恩賞として建立したといわれています。

西福寺御本堂

 

『徳川家康と駿府城下町』によると、2つの町は昔から町境が流動的だったらしく、西寺町と呼んだり大鋸町と言ったりはっきりしていませんでした。『駿国雑志』では玄忠寺から西福寺までを西寺町としていますが当時の地誌類には混同して書かれているものもあるようです(『徳川家康と駿府城下町』より)。

玄忠寺

 

昭和20年(1945)9月の区画整理により、西寺町を大鋸町に編入したことにより西寺町の町名は消滅しました。大鋸町に大工町の一部と本通五丁目の一部が編入され、現在の大鋸町となりました。

 

●こぼれ話 その1●

大鋸(おおが。おがとも言う)とは、木材の縦びき専用の鋸(のこぎり)のことで室町時代に中国から伝来しました。中央で刀の方向が左右に分かれた鋸身(のこみ)を枠に張り、2人で大材を挽き割る工具で、大型なので大鋸といわれました。大鋸の出現は製板や木材加工技術に一大革命をもたらしたそうですが、2人で作業しなければならない程大型であったため、鋸身の製法が難しく、一般には入手困難だったようです。

江戸では木挽きを生業にする職人の町を木挽町と呼び、駿府では大鋸町と呼びました。ちなみに、おが屑の「おが」は大鋸からきているそうです。

西寺町 大鋸町の町並み

 

 

●こぼれ話 その2●

江戸時代、駿府に相撲興行がかかると「玄忠寺相撲」と称して玄忠寺の境内で行われる駿府の名物になっていましたが、明治初期頃から宝台院に移ったそうです(『駿府の歴史』より)。

玄忠寺には静岡を下駄産地として有名にした功労者「下駄久(げたきゅう)」こと本間久次郎の記念碑がありました。下駄職人の本間久次郎が功労者と讃えられるのは、安価な消耗品扱いの下駄作りに疑問を持ち、漆仕立ての高級塗下駄や焼き杉を使った下駄を開発し、量産化を図ったことで全国的な流行を作り出しました。特に漆や蒔絵で絵柄を施した女性用の下駄は大ヒットしたそうです。

明治45年(1912)には清水の下駄問屋三島屋3代目の井上半蔵が清水受新田(清水区築地町)に「清水下駄株式会社」を創立し、機械化による大量生産を始めました。大正時代に最盛期を迎え、圧倒的な生産量と技術力から、塗下駄といえば静岡、といわれるまでに成長しました。

現在、駿河塗下駄は静岡県郷土工芸品に指定されています(静岡市ホームページ「駿河塗下駄」より)。

 

駿河塗下駄(静岡市ホームページより)