宮ヶ崎町(みやがさきちょう 現在の宮ヶ崎町・西草深町・安倍町ほか)

駿府城下最古の歴史ある門前町

慶長9年(1604)まで地内は浅間神社領でした。宮ヶ崎の地名は、この神社の社前に位置すること(お宮の前=宮の崎、言い方としては「みやんがさき」)に由来し、駿府城下で最も古い歴史を持つ門前町であると『駿国雑志』にあります。町名の初見は、戦国時代の文献資料『永禄13年(1570)正月廿日武田晴信判物』(静岡浅間神社文書)です。江戸時代に入ると駿府九十六ヶ町のひとつに数えられました。

宮ヶ崎町の町並み

 

江戸時代には浅間神社境内は宮ヶ崎町内に含まれず神域として独立していましたが、明治期になって町内に含まれたとのことです。

『当代記(織田・豊臣政権期から江戸幕府の成立期にかけての政治・軍事・社会状況を編年的に記録した年代記)』によると、駿府城造営中の慶長12年(1607)5月、地内から出火した火がたちまち5ヶ町に類焼し火事場泥棒が横行、神社の財宝が奪われたということです(『徳川家康と駿府城下町』「宮ヶ崎町」より)。

浅間通り商店街

 

宮ヶ崎町の町並み 御器屋町方面

 

地内には、報土寺の近くに家康公の蹴鞠の相手であった安田三右衛門(京都幾田神社神官)が居住していました。家康公の求めにより度々駿府城に登城していたそうです。安田神官は火災の心配を口にしていたため、家康公は火に強い土蔵造りの家を建てて与えたといいます。当時としては珍しい瓦葺であったため、その家に面する道を瓦屋小路(かわらやこうじ)と呼んでいました(『家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて』「瓦屋小路」より)。

瓦屋小路

 

大正13年(1924)御器屋町の一部を編入。昭和44年(1969)一部が西草深町となりました。昭和52年(1977)住居表示により一部が安倍町・安西1丁目・片羽町・馬場町となり、御器屋町・西草深町・安西1丁目の一部を編入しました。

 

●こぼれ話●

諸説あり定かではありませんが、江戸幕府の公式文書では慶長10年(1605)に軍学者・由井小雪(ゆいしょうせつ)(※1)が駿府宮ヶ崎の岡村弥右衛門の子として生まれたとされています。正雪は慶安4年(1651)3代将軍家光公の死を機に、幕府覆滅を企てましたが、決起寸前に密告により発覚、滞在していた梅屋町の旅宿・梅屋で駿府町奉行の捕り方に囲まれ、自刃しました(慶安の変)。

 

(※1)楠木正成の後裔と称する楠不伝に楠流の軍学を学ぶ。その後、旗本や大名の家臣、浪人など3000人の門弟を指南したと言われる。

菩提樹院にある由井正雪公像

 

横内にある来迎院(らいこういん)には由井正雪の位牌と、正雪の菩提を弔うために建てられた13仏堂があります。また、さらし首となっていた正雪を縁者の女人が盗んで、葬ったという首塚が菩提樹院にあります。菩提樹院はもともと寺町4丁目にありましたが、現在は静岡市葵区沓谷に転座しています。由井正雪の生まれ年は1610年(慶長15年)という説もあり、その場合は享年42歳ということになります。「由井」は「由比」とも書きます。

正覚山菩提樹院 山門

 

由井正雪公首塚