本通川越町(ほんとおりかわごしちょう 現在の本通10丁目)
多くの川越人足が居住していたまち
新通川越町・堤添川越町と合わせて三川越町(川越三町とも)と呼ばれていました。町名は本通九丁目の西隣にあり、安倍川の川越人足(かわごしにんそく)が居住したことに因みます(『駿河国新風土記』より)。
天保13年(1842)の『本通川越町町絵図』によると町の長さは68間余り(約80m)に66戸が住み、川越人足は29戸だったそうです(『徳川家康と駿府城下町』より)。
安倍川の川越しの様子
安倍川と大井川は幕府の軍事的配慮から橋を架けることを禁止され、東海道を行き交う旅人は川越人足が歩いて人や荷物を渡す「徒歩渡し」で川越えしなければなりませんでした。聖徳期(1711頃)以前には鞠子の宿に忍足が数百人もいて、肩車や輦台(房を2本つけた板に客を乗せ、担いで川を渡る輿)で人や荷物を渡していました。
安倍川の水かさが一定以上になると通行が禁止され、これを「川留(かわどめ)」と呼びました(『大御所四百年祭記念 家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて』より)。大井川では増水で28日間も川留になったことがあったそうです。
安倍川の川越え賃は、ひざ下はひとり16文(1文を32.5円で換算すると520円)、股下は18文(585円)、股までは28文(910円)、へそ下は46文(1,495円)、へそまでならば48文(1,560円)、へそ上は55文(1,788円)、脇下から胸あたりまでなら一人64文(2,080円)という料金だったといわれています(静岡市「安倍川の川会所跡」説明看板より)。
現在は穏やかな流れの安倍川
安倍川に架かる安倍川橋
大正4年(1915)本通十丁目と改称され、本通川越町の町名は消滅しました。
●こぼれ話 その1●
川越人足は駿府九十六ヶ町の年行事(現在の連合町内会長)を赦され、火消人足(現在の消防団員)のみ負担しました。駿府の消防組織として、5代将軍綱吉公の時代に「駿府定火消(すんぷじょうびけし)」が創設されました。駿府九十六ヶ町のうち七十五ヶ町より762人が参加して組織を作り、駿府町奉行所の火事場係5人の指揮監督下に置かれ、町奉行が最高指揮をしました。762人を6組を編成し、その中の2組で大組を作りました。それぞれの組が斧組・井筒組・輪違(わちがい)組・軍配組・太鼓組・蛇目(じゃのめ)組と称し、纏(まとい)を色分けしていました。仕事の順番は年行事が町奉行所に届けて持ち回りで決まっていたそうです。
当時は消火器具も少なかったため積極的に火を消すというよりは、火が広まらないように周辺の家々を破壊して延焼を防止する「破壊火消」と呼ばれるものでした(『徳川家康と駿府城下町』「文化四年の大火 ある武士の記録」より)。火消人足は家業を持った町人たちであり、火事が起こるとそれぞれの持ち場に赴き、町奉行所の指示に従って働きました。しかしこの火消はあくまでも無償奉仕(ボランティア)でしたので、自分の住む町の近くが火事現場の場合は大いに働いたのですが、遠い町での出火となるといい加減になってしまい、効果的な消火活動とはならなかったそうです。そこで文政4年(1821)別の火消制度として「百人組合火消」が設立され、組織的な消火体制と機動力を発揮しました。
●こぼれ話 その2●
時を経て、新たに「静岡町火消」が創立されたのは明治3年(1870)になってからでした。静岡町火消は従来の駿府定火消・百人組合火消に、新門辰五郎(しんもんたつごろう)の消防組を合併して組織されました。
新門辰五郎は町火消を象徴する人物です。寛政12年(1800)江戸に生まれ、浅草寺の塔頭・伝法院新門の門番だったので新門を名乗りました。浅草十番組の「を」組の頭であった町田仁左衛門に身を寄せ、頭角を現します。町田の娘と結婚し娘婿となり、「を」組の頭と、十番組の頭領として約2千人の手下を抱えるなど、浅草・上野を縄張りとする大江戸一の侠客(きょうかく)(※1)でした。一橋慶喜(のちの15代将軍慶喜公)が京都の禁裏守護を命じられると一橋家の家臣不足を補うため、「一橋家お抱え火消し隊」としてともに上洛し、二条城の警備にあたります。
(※1)「弱きを助け、強きをくじく」ことを信条として任侠に生きる者
新門辰五郎が来静した際、勝海舟の世話で常磐町2丁目にある常光寺を宿としました。当時の常光寺第10代住職の賚雲(らいうん)が、辰五郎と子分たち数十人を寺に寄宿させましたが、部屋が足りず門徒(信者)さんにもお願いして、あちこちに子分を寄宿させたといいます。常光寺境内には辰五郎が建立した辰五郎の妻と戊辰戦争で倒れた子分の墓があります。
常光寺内、辰五郎が建立した妻と子分の墓