台所町(だいどころまち 現在の相生町1丁目・伝馬町・鷹匠2丁目)
城下町に存在する「台所町」
台所町は駿府城の南東に位置し、町名は駿府城の御台所御門(おんだいどころごもん)に通じるところにあったことに由来するといわれています。御台所御門は本丸東側の門で、櫓(やぐら)付きで本丸堀に少し張り出す構造の門です。この門は許可を得た商人などが大奥に呼ばれた際に出入りする門でもありました。御台所という名称からも分かるように、本丸御殿に食料を始めとした台所用品を運び入れる門であったためにこう呼ばれたそうです。現在は埋め立てられてしまったため御台所御門を確認することは出来ませんが、駿府城公園内の紅葉山庭園の本丸側周辺にありました。
駿府城公園 紅葉山庭園前周辺
台所町は横田魚町ともいわれ、元亀年間(1570~73)武田家より魚座(座は現在の組合のこと)を置くことを許され、魚を扱う商人が多くいたそうです(『駿河志料』より)。また、その昔、弘法大師が諸国を巡る途中で当町を訪れて水を所望したところ、そのみすぼらしい姿を見て土地の者が断ったため井戸を掘っても水が出なくなったという伝説も残っています(『旧版静岡市史』より)。
台所町の町並み
明治41年(1908)鷹匠町一丁目(現新静岡駅)から庵原郡江尻町(現新清水駅)の間に軽便鉄道(静岡鉄道の前身)が開業した際、線路が台所町の中央を通り、横内門に通じる道との交差点に1番目の駅が設けられました。当時の駅名は「台所町駅」、現在の静鉄日吉町駅です。
静岡鉄道 日吉町駅
台所町は大正13年(1924)に誉田町(ほんだちょう)の一部を編入した後、昭和20年(1945)に伝馬町・日吉町・相生町1丁目に分割編入され台所町の名は消滅しました。日吉町も昭和45年(1970)鷹匠2丁目に編入され、日吉町の町名も消滅しました。
●こぼれ話●
台所町の名前の由来はお城や武家屋敷に関係しているので、駿府だけではなく江戸(東京)や加賀(金沢)、尾張(名古屋)などの城下町にも台所町という町名が昭和の時代まで残っていました。
江戸の台所町は、現在の東京都千代田区飯田橋2丁目あたりにありました。こちらには江戸城の台所衆の組屋敷があり、台所頭をはじめ台所衆・台所者と呼ばれる、江戸城の料理を作る役人達が住んでいたそうです。
そしてもう一か所、神田明神下御台所町(かんだみょうじんしたおだいどころまち)という町もありました。現在の千代田区外神田2丁目あたりです。明暦3年(1657)の「振袖火事」と呼ばれる、江戸の町全体の6割を焼き尽くして十万人余りの命を奪った大災害の後、江戸幕府の命により城内の武家屋敷として造られた町です。どちらの台所町も比較的江戸城に近く、神田川を挟む位置にありました。
ところで神田明神下御台所町の長屋には、野村胡堂(※1)の名作『銭形平次捕物帳』の主人公 平次親分が恋女房のお静さんと二人で住んでいたという設定でした。投げ銭でお馴染みの岡っ引き・平次親分の活躍が神田明神界隈を舞台に描かれたことから、寛永通宝を形どった「銭形平次の碑」が神田明神から明神下を見守る場所に建てられています。隣には平時親分の子分ガラッ八の小さな碑もあります。
(※1)本名:野村長一(おさかず)。小説家・音楽評論家。明治15年(1882)、岩手県紫波郡(しわぐん)の出身。代表作の『銭形平次捕物帳』は昭和6年(1931年)、胡堂49歳から75歳までの26年間に渡り『文藝春秋オール読物号』に連載された。
銭形平次の碑