常慶町(じょうけいちょう 現在の常磐町2丁目)
教覚寺境内だけという珍しいまち
常慶町は松下常慶(浄慶とも書く)が居住していたことに因んだ町名で、昭和20年(1945)まで教覚寺境内だけで1ヶ町を成した珍しい町でした。
松江山教覚寺(づんごうざんきょうかくじ)は旧静岡市唯一の浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院で、開基以来一貫して仏法聴聞・念仏相続の道場としての役割を果たしています。
教覚寺の起こりは鎌倉初期の文暦元年(1234)浄土真宗開祖の親鸞(しんらん)の教えに帰依した光信房(こうしんぼう)が、江尻宿入江町(現在の清水区入江)の自宅を念仏の道場としたことに遡ります。
その後、元和2年(1616)第10代乗真の時に、家康公の死去に伴い江戸に移った家臣の松下常慶の屋敷を譲り受けて、この地に移転しました。松下常慶は駿府城築城の折、二ノ丸東御門を10日間で完成させた功績により土地と700石が与えられ駿府城内の台所奉行となった人物で、城内に常慶蔵や常慶門(東御門)の名が付けられたほどでした(『徳川家康と駿府城下町』より)。
親鸞聖人像
松江山教覚寺
この町は城下町の中で一番小さな町でしたが、昭和15年(1940)の静岡大火で全町が焼失し、昭和20年(1945)の区画整理で常磐町2丁目となり、常慶町の町名は消滅しました。
●こぼれ話 その1●
東御門は、二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多門櫓で構成された桝形門です。桝形門は要所に石落としや鉄砲狭間・矢狭間等を持つ、堅固な守りの実戦的な門で、戦国時代の面影を残しています。この門は主に重臣たちの出入り口として利用されていました。現在の建物は平成8年(1996)に、日本の伝統的な木造工法によって復元されました(“東御門・巽櫓”徳川家康大御所時代の居城「東御門」より)。
復元された駿府城東御門(常慶門)
丸と四角の穴が「狭間(はざま)」
●こぼれ話 その2●
明治の初めに静岡藩の商事機関であった「商法会所(しょうほうかいしょ)」が「常平倉(じょうへいそう)(※1)」に改組され、紺屋町から教覚寺内に移されました。当時、慶喜公より静岡藩の勘定組頭を命じられ、次いで勘定頭支配同組頭格御勝手懸り中老手附(かんじょうがしらしはいどうくみがしらかくおかってがかりちゅうろうてつき)も務めることになった渋沢栄一(※2)は、しばらく家族と教覚寺に寄宿していました。
(※1) 銀行と商社の業務を行う合本制による金融商社。「常平倉」とは米価調節のために奈良時代置かれた官庁の名称。
(※2)渋沢栄一については「②紺屋町(こうやまち)」に記載。
渋沢栄一が商法会所を開いた理由について、『渋沢栄一伝記資料』の「雨夜譚(あまよがたり)会談話筆記」にこうあります。
(原文表記)「私が仏蘭西(フランス)に滞在中深く感じた事が一つあつた。それは我国が彼の地に比較して官尊民卑(かんそんみんぴ)の弊が甚だしい事である。私はせめて実業界に丈けでも此の弊を直して見たい。それには民業の発展が必要である。それは三井や鴻の池と云ふやうな金持はある。けれども今後は金を持つてゐるだけでは何もならぬ。少なくとも民業を進めると云ふ事は一人が金持になると云ふ事ではいかぬ。それには合本組織がよい。(中略)これさえ実行出来たら、金の為めに威張ると云ふ事はなくなるであらう。又これによつて民間の知識が進めば自然官尊民卑の弊はなくなる。何でもお役人の言ふことは御無理御尤(ごむりごもっとも)と常に頭を下げる必要もなくなることになるのである。こんな考を以て初め静岡藩で合本組織をやつて見た。それがあの商法会所であつた。」
また、商法会所から常平倉へと改名した経緯も紹介されています。
(原文表記)「〇上略 処で其の年の五月頃、藩庁から商法会所として藩の資本で商業をするのは、朝旨に悖るから事実は兎も角も其名称を改正しろといふ内意があつて、種々の評議をした上で、常平倉といふ名称に改めました。これは大久保が漢の時代に行はれた古例を引て、命名したのであるが肥料の貸付も米穀の売買もすることであるから、真の常平といふ趣意には応じがたくして、詰り其名を替へたまでゝありました。」(『渋沢栄一伝記資料』第2巻p.184『雨夜譚』(渋沢栄一述)巻之四p.26より)
常慶町町名碑と教覚寺