鍛冶町(かじまち 現在の昭和町・紺屋町)

刀剣や農具を作る鍛冶職人のまち

駿府城大手門の南に位置する町名は、天正期頃(1574~93)から鍛冶職人を住まわせたことに由来しています。駿府には刀剣や農具を作る「地鍛冶」と「瀬名鍛冶」、釘類や舟道具を作る「上鍛冶」と呼ばれる鍛冶職人がいたようです。

鍛冶町の謂れ

 

静清信用金庫本店営業部と鍛冶町の碑

 

刀鍛冶の中には、戦国時代から江戸時代の後半まで代々続いた家もありました。『駿河記』によれば、刀鍛冶である藤原兼法(岡村助右衛門兼法)は、家康公に召し抱えられて浜松から駿府へ移住し、代々、刀剣・農具・釘の三鍛冶の頭になったとされています。家康公は彼を諸役御免(※1)として遇し、話し相手としてしばしば城内に招いていました。

宮ヶ崎生まれの由井正雪(※2)は、武芸に秀でていましたので、刀鍛冶の藤原兼法とも面識があったと言われています。

(※1)しょやくごめん:武士・武家の御用を勤めている町人などが、すべての課役を免除されること。

(※2)由井正雪については「㉕宮ヶ崎町(みやがさきちょう)」および「㊸梅屋町(うめやちょう)」に記載。

菩提樹院にある由井正雪公像

 

慶応2年(1866)3月10日に呉服町二丁目の伊豆屋彦五郎の土蔵から出火した火災は折からの強風で、18ヶ町を焼失させました。鍛冶町も30戸が罹災、130人が家や家財を失いました。また昭和15年(1940)の静岡大火および昭和20年(1945)の静岡大空襲によって、江尻町と宝町(宝台院の門前町)、鍛冶町が焼失しました。

昭和20年(1945)に下桶屋町・宝町・鍛冶町の一部ずつを合わせて、昭和町と紺屋町に分割編入され、鍛冶町の町名は消滅しました。
昭和町は昭和の元号に因んで付けられた町名で、静清信用金庫は、昭和40年5月10日、七間町からこの地に本店を移転しました。

現在の昭和町は飲食店が多く立ち並ぶ賑やかな町に様変わりしています。

鍛冶町の町並み 両替町六丁目と紺屋町方面

 

  
昭和町にある静清信用金庫本部と本店営業部