寺町(てらまち 現在の梅屋町・駿河町・常磐町2,3丁目・本通5丁目ほか)
外敵の侵入を阻止するための防衛線
寺町の名は家康公が駿府の城下町を整備した際、周辺の寺々をこの地に集中させたことに由来します。家康公は西国の大名を強く意識していたので、城下町の西の外れに寺を集めることで敵の攻撃に備えていたのではないかといわれています。寺の境内は兵を駐屯させるのに適しており、有事の際には建物や墓石などを軍事物資として利用するといったことも考えられていたようです。
寺町三丁目の町並み 寺町二丁目方面
同じようにしてできたのが西寺町と常慶町です。いずれも昭和20年(1945)の区画整理で町の名は消滅してしまいましたが、現在の大鋸町、駿河町から常磐公園にかけて存在しました。
家康公は駿府城と城下町造営にあたり、秩序よく寺院を集約したのでした。
寺町一丁目の引接院善然寺(いんじょういんぜんねんじ)は大永2年(1522)有度郡(現在の静岡市駿河区と葵区・清水区の一部)に創建されましたが、のちに駿府城内に移されました。しかし城の拡張の折に現在の地(葵区新通1丁目)に再転座しました。寺町一丁目はこの善然寺1寺だけで成り立っていました。
善然寺
寺町二丁目の常住山感應寺(じょうじゅうざんかんのうじ)は明応年間(1492~1501)に富士郡(現在の富士市)にありましたが、駿府草深を経て天正期(1573~92)に現在の地(葵区駒形通1丁目)に移築されました(『徳川家康と駿府城下町』より)。家康公の没後百ヶ日法要では、側室であった養珠院お万の方(※1)が、この寺で放生会(ほうじょうえ)(※2)を行ったそうです(『駿府の歴史』より)。
感應寺
放生池
(※1)駿府九十六ヶ町の江川町の町名由来となった江川家の第28代当主英長の養女で、紀州藩初代藩主 徳川頼宣、常陸水戸藩初代藩主 徳川頼房の生母。水戸黄門として有名な光圀は、お万の方の孫(『大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ』より)。寺町三丁目から転座した蓮永寺にお万の方の供養塔(静岡市指定有形文化財)がある。
(※2)慈悲の実践のために鳥や魚を放ち、殺生を戒める宗教行事。
蓮永寺にある養珠院(お万の方) 供養塔
終戦後の昭和20年(1945)の区画整理により、善然寺と感應寺を除いて他の寺院が沓谷の花園霊苑などに転座し、跡地は常磐公園として整備され、多くの市民の憩いの場として親しまれています。
常磐公園(寺町三丁目)
ただし、寺町三丁目にあった安立寺は駿府城の大手門から真っ直ぐ伸びる七間町の突き当たりにあったため、戦前の道路拡幅に伴い現在の葵区春日3丁目に転座されたそうです。
葵区春日3丁目に転座した現在の安立寺
昭和20年(1945)、寺町一丁目は梅屋町・本通5丁目・新通1丁目、二丁目は梅屋町・駿河町・人宿町2丁目、三丁目は駿河町・常磐町2・3丁目、四丁目は駿河町・常磐町2・3丁目となり、寺町の町名は消滅しました。