新谷町(しんがいちょう 現在の御幸町・伝馬町)

紺屋町にある小梳神社とゆかりのあるまち

町名の由来については、江戸時代の地誌『駿河記』に「新谷氏の居宅ありし故に名づく」と記されています。また、「慶長十四年に町割有て新に建てられし所なり」ともあり、町割りによって新設された町であることがわかります。駿府城の拡張に伴い、代替地として小梳神社(おぐしじんじゃ)の神職 新谷久悦に宅地として与えられたことから、慶長14年(1609)その名前を取って新谷町となりました。

新谷町の謂れ

 

旧東海道沿い、新谷町の町並み 上下伝馬町方面

 

新谷町の町並み

 

昭和20年(1945)伝馬町と御幸町へ改変され、新谷町の町名は消滅しました。

 

●こぼれ話●

小梳神社の近辺には駿府代官屋敷があり、その付近には御用茶として献上された足久保茶を保管する御茶小屋が江戸時代の初めから正徳年間(1711~16)までありました。これは家康公の御用茶として管理されていたお茶で、茶師であった新谷久悦が家康公の御茶会を主催していました。新谷久悦の母は、家康公の母方の祖母の源応尼(法名華陽院)(※1)と血縁であり、侍女として三河から駿府に共にやって来たと言われています。

(※1) 源応尼(華陽院)については「⑫花陽院門前町(けよういんもんぜんちょう)」に記載。

紺屋町に鎮座する小梳神社は、もとは現在の静岡県庁の東側(元青葉小学校あたり)にありました。今川家人質時代の竹千代(のちの家康公)が、源応尼と共にこの神社にお参りし、武運長久を祈願したと伝えられています。慶長12年(1607)徳川家康公が駿府城を拡張した際、守護神として三ノ丸に祀られたため24年間も庶民との縁を絶たれていたのですが、寛永8年(1631)城外の新谷町へ還されました。延宝3年(1675)新谷町から加番の明屋敷(あけやしき)(※2)であった紺屋町の現在地(静岡PARCO正面)に再び還座しました。還座後も小梳神社の祭礼では、新谷町の神社跡地へ神輿の巡幸がありました。

(※2)元々は加番が住んでいた屋敷のことを指す。加番とは江戸時代に城の警備を努めた者。家康公が元和2年に没した後、大半の武士が駿府を引き払い江戸に移り、残された住居は「明屋敷」と呼ばれ、城の周辺から安西方面にかけて多く存在していた(『徳川家康と駿府城下町』「明屋敷」より)。

小梳神社

 

小梳神社御本殿