藤右衛門町(とうえもんちょう 現在の七間町)

横七間藤右衛門町とも呼ばれていました

町名の由来は、家康公にゆかりのあった藤右衛門という人が住んでいたことによります。寛永2年(1625)12月の『中納言様より被下候米之割帳(くだされそうろうこめのわりちょう)』(中納言様=前年に駿府城主となった2代将軍忠長公)に記載されている町名を見ると、「横七間藤右衛門町」と書かれています。『駿河国新風土記』の梅屋町の項に、「此辺すべて横七間町と呼ぶ」と記されているように、七間町に直交する上大工町・梅屋町・人宿町三丁目・藤右衛門町・常慶町の道筋を横七間町と称したと思われます。但し町名としては藤右衛門町・大工町以外には、横七間の名は冠せられていないとあります(『駿府の城下町』織田元泰「駿府九六ヵく」より)。

藤右衛門町の町並み

 

藤右衛門町は昭和15年(1945)の静岡大火後の区画整理で七間町に編入され、町名は消滅しました。

左手前が藤右衛門町 左手奥が人宿町三丁目 右が七間町三丁目となる町境

 

●こぼれ話 その1●

町名碑前にある浄円寺は江戸時代から400年続く歴史あるお寺です。慶長年間(1596~1615)江尻で開基、3代将軍家光公の時に当地に移りました。能楽の発展に深くかかわった寺として知られ、境内には立派な梵鐘(時を報せる釣鐘)があります。

その由緒にこんな話が伝わっています。浄円寺8世慧海上人は記憶力抜群の名僧で、かねがね梵鐘と鐘楼(梵鐘を吊るす建物)を造りたいと思っていました。宝暦12年(1762)のある日、信徒の富商を訪ね待たされているとき、そこに主人が付けていた帳簿があったので、何気なくそれを見て時を過ごしました。その夜、町に火事が起きてその店は帳簿もろとも焼けてしまいました。翌日、上人が見舞いに行くと、せめて帳簿があったら商売が続けられるのにと嘆く主人の言葉を聞き、記憶していた帳簿の内容を見事に再現しました。そのおかげで店は再建出来、喜んだ主人は梵鐘をつくる費用を寄付をしたそうです。こうして明和8年(1771)梵鐘が完成。臨済寺(りんざいじ・葵区大岩)、本覚寺(ほんがくじ・駿河区池田)と並んで駿府の三梵鐘といわれました。

浄円寺

 

浄円寺の梵鐘と釣鐘

 

●こぼれ話 その2●

別雷神社は江戸時代、浄円寺と向かい合わせになっていました。社伝によれば別雷神社は応神天皇4年(273)に創建され、大宝3年(703)に「安倍市」(※1)の守護神となりました。静岡浅間神社の大歳御祖神社と創建年を同じにしていて、両社の関連が指摘されています。

 

(※1) 安倍市については「㉘安倍町(あべちょう)」に記載。

 

京都の「賀茂別雷神社」(上賀茂神社)の分霊社ということから、足利義政公、今川家、武田家など武将から篤く崇敬されました。家康公も宝刀を寄進したそうです。但し当時は神社を管理するために置かれた別当寺としての「龍相山雷電寺」の方が知られていました(『駿河志料』より)。

駿河国新風土記に「すべて町々に事ある時此処に集会し、是を議す」とあり、駿府九十六ヶ町の自治はこの雷電寺を会所(現在の役所)として運営され、年行事(連合町内会長)はここで事務を執りました。主に町奉行所の命令の下達を司るなど、町政の中心的存在でした。

別雷神社

 

大歳御祖神社御本殿

 

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