本通(ほんとおり 現在の本通1~9丁目・大鋸町・幸町)

慶長の町割り以前の、元々の「東海道」

駿府城の南西に位置する町で慶長6年(1601)に東海道の宿駅が制定された際には、この町を貫く通りが東海道とされました。

しかし、慶長14年(1609)慶長の町割り(※1)に伴い、新通りが新たな東海道となりました。新通りに対して「モトトホリ」(=元通)と呼ばれたことが町名の由縁となっています。別名「通町(とおりまち)」とも呼ばれていたそうです。ただ、いつから本通の呼称となったかは定かではありません。一丁目から九丁目が駿府九十六ヶ町に数えられていました。

 

(※1) 慶長の町割りについては「㊾新通(しんとおり)」に記載。

 

本通一丁目は豪商が軒を連ねた商人街として栄えました。元禄年間(1688~1704)には豪商として活躍した松木新左衛門が居住、宝暦年間(1751~64)には駿河小早(するがこはや)(※2)仲間の一人、青茶屋善兵衛が居住していました。

 

(※2)豊臣家が滅びた後、家康公は没収した豊臣家の軍船を「駿河小早」と総称し、駿河湾内の遭難船の救助義務や海上警察権とともに商品売買の独占権を与えた。駿河小早の商人たちは江戸や大坂へ駿府の産物を運び、帰りに産物を持ち帰って駿府の繁栄に貢献した。

 

本通四丁目には、駿河凧(するがだこ)を製造販売している「凧八(たこはち)」があります。駿河凧は戦国時代に今川義元公の家臣が戦勝祝いに揚げたことが始まりと伝えられています。下部のエラが張った独特な形と、空に揚がってもよく分かるように顔を中心に大きく描いた鮮やかな凧絵が特徴です(5代目凧八 後藤 光氏談)。

幕末期に士族だった加藤八蔵から5代に渡って受け継がれています。3代目の加藤辰三郎は、海外にも積極的に進出し、その特徴的な絵柄は米国でも高く評価されました。

駿河凧凧八 5代目 後藤 光 氏作

 

本通六丁目には寺院が存在し、家康公にゆかりの深い長善寺があります。この寺には家康公が寄進した茶釜があり、家康公の祖母源応尼(げんおうに)(※3)が毎月来てお茶をたてていたと伝えられています(『家康公の史話とエピソードを訪ねて』より)。

 

(※3)源応尼については「⑫花陽院門前町(けよういんもんぜんちょう)」に記載。

本通6丁目にある長善寺

 

長善寺には由井正雪の起こした慶安の変の舞台となった梅屋の梅屋勘兵衛の墓があります

 

本通八丁目には、東海道に1里(約4km)ごとに置かれた一里塚(※4)がありました。

 

(※4)家康公の命で大久保長安が設置した広さ5間(約9m)四方、高さ10尺(約3m)の塚。塚には榎や松などが植えられて遠くからも分かりやすくしてあり、運送や運搬の駄賃の目安にもなっていた。静岡県には42か所あり、旧静岡市には長沼、本通、丸子、宇津ノ谷の4か所にあった(『駿府の歴史』より)。

本通8丁目には一里塚が置かれました

 

本通9丁目にある浄元寺 寺で談話を聞いたり碁を楽しんだりと、浄元寺の和尚を拠り所としていました

 

明治5年(1872)本通十丁目が本通川越町に改称されましたが、大正4年(1915)本通川越町が本通十丁目と再び改称され、本通は1丁目から10丁目までとなりました。

本通りは、昭和3年(1928)から始まった静岡市の都市計画街路事業により順次拡幅されました。昭和11年(1936)には中町から弥勒町までの区間が従来の5間幅(約9m)から12間幅(約22m)へと拡幅され、太平洋戦争後の都市計画で現在の約29m幅の道路になりました(『静岡戦災復興誌』、『角川日本地名大辞典・旧地名編』より)。