横内田町(よこうちたまち 現在の太田町)

家康公が牛車の通行を禁止したまち

駿府城下の東北に位置した北街道沿いの町で、横内町の東隣りにありました。

この町には家康公と関係の深い伝説が残っています。江戸時代の駿府奉行が著した『名乎離曽の記(なこりそのき)』によると、慶長年間(1596~1615)に家康公が鷹狩りに出かけた際、休息のために立ち寄った民家で手厚くもてなしてくれた老婆に、「何か望みはあるか?」と聞いたところ、老婆は「近頃は朝夕関係なく牛車(うしぐるま)(※1)の通行が多く、騒音でやかましいので何とかしてもらいたい」と願い出ました。家康公は老婆の申し出を聞き入れ、以後、この町の牛車の通行を禁止したといいます。

(※1)江戸時代初期、牛車は駿府・京都・仙台(のちに江戸、幕末には函館)でしか使用が許されていなかった。詳しくは「㉓車町(くるまちょう)」に記載。

横内田町の謂れ

 

江戸時代初期は人家も多く存在しましたが、天保13年頃(1842)までに横内町に含まれてしまったと考えられ(『駿府の城下町』織田元泰「駿府九六カ町を歩く」より)、横内田町の町名は消滅しました。古くに消滅したため、横内田町は駿府九十六ヶ町の中でも町の全容に不明な点が多く残っています。

横内田町の町並み

 

町の近くには家康公にゆかりの深い浄土宗 来迎院(らいこういん)があります。来迎院は慶長14年(1609)家康公の信任が篤かった廓山(かくざん)上人を開山として、家康公自ら開基された寺です。家康公が駿府に移った際、駿府城の鬼門(※2)にあたる当地を選び寺院を建立されたと伝わっています。後に江戸の増上寺13世住職にもなった廓山上人は家康公が駿府を隠居の地に選んだ理由について、家康公が語った言葉を『供奉記(ぐぶき)』に記録した人でもあります。また、来迎院には家康公から贈られた「南蛮人渡来図屏風」が伝わっていましたが、明治22年(1889)徳川家に返納され、現在は宮内庁三の丸尚蔵館(歴史博物館)に所蔵されています。

(※2)北東の隅にあたる方角をいう。鬼が出入りして集まる所といい、忌み嫌う方角とされる(日本大百科全書より)。

来迎院英長寺山門

 

大正4年(1915)かつての横内田町の一部に安倍郡南安東村の一部を併せて太田町となりました。

横内田町の町並み

 

横内田町の町並み 正面に見える門は来迎院