堤添川越町(つつみぞいかわごしちょう 現在の本通西町)
安倍川の川会所があったまち
新通川越町・本通川越町と合わせ三川越町(川越三町とも)と呼ばれました。本通りの西端、安倍川左岸の安倍川内堤の傍らにあり、川越人足が居住したことからこの町名がつけられました。堤添町ともいわれたそうです(『駿国雑志』より)。
川越人足は安倍川を渡る旅人や荷物の運搬に従事しており、天保13年(1842)の『堤添川越町絵図』によると、町の長さ68間余(約80m)、町内29戸のうち17戸が川越人足でした。
幕府が定めた河川の渡河(とか)方法は、天竜川と富士川が渡し舟であるのに対して、安倍川と大井川は徒歩渡し・馬渡し・輦台(れんだい)渡しでした。江戸時代以前の安倍川も人や荷物を渡し舟で渡していましたが、江戸時代の川越制度の確立によって渡し舟が廃止されました。
大井川(島田市金谷)の川渡しの様子 安倍川の川渡しの様子は「51.本通川越町」にあります
この町も川越人足を努めるので駿府九十六ヶ町の年行事は赦され、火消人足のみを負担していました。
安倍川の上り川会所(かわかいしょ)(※1)は地内の入り口で、現在の弥勒交番あたりにありました。
(※1)川越人足が人や荷物を渡すのを管理・監督する役所で、間口六間、奥行き四間半の広さだった。川役人は川越人足たちに指示を出したり、川越賃を取り扱っていた。ここには役人のほか、立会人と呼ばれる案内人たちが毎日詰めていて、旅人たちに川越しの手引きをしていた。
川会所跡に建つ静岡中央警察署弥勒交番
安倍川流域では川越人足だけではなく、伐り出した材木や炭などを筏(いかだ)で運んだ筏人足、流した材木を集める木場人足や材木商人、増水で川留(かわどめ)となったときの茶屋や宿など様々な職人や職業が生まれ、人々の暮らしは川との関わりを深く持つようになりました。同時に安倍川の清流はこの地方の温暖な気候と相まってわさびやお茶、みかんなどの特産品を生み出すことにも寄与しました。
渡河を管理していた川会所は時代が改まった明治4年(1871)まで約150年間続きましたが、明治政府は徒歩などによる川渡しを廃止し、江戸時代以前のように舟での川渡しに切り替えようとしました。しかし近在に舟を操れる人足がいなかったため、渡し舟による川渡しを行っていた富士川から人足を46人連れてきて、その任に当たらせたそうです。
同年の渡しの規定によると、仮橋の渡し賃は一人につき12文(一文を32.5円で換算すると390円)、渡し舟は一人につき113文(同3,673円)でした(『東海道と碑』より)。
大正4年(1915)本通西町と改称し、堤添川越町の町名は消滅しました。
安倍川
●こぼれ話●
安倍川がもたらす度重なる洪水被害によって人々は人間の無力を嘆き神仏に祈り、その加護により水害を免れようと考えていました。そのため、安倍川流域には川除地蔵や水神社が多く建立されています。川除地蔵は中島・福田ケ谷・籠上などに、水神社は柳町・牛妻・俵沢・弥勒にあります。『駿河国新風土記』には、弥勒の水神社は江戸時代・寛文年間(1661~73)に祀られたとあります。
弥勒にある水神社
「三川若者」「弥勒若者」と読める刻字 三川は三川越町の略
堤添川越町に隣接した弥勒には、キリシタンにまつわる碑などが建立されています(※2)。「首地蔵」には祠(ほこら)の中に首のない石仏が数体並んでいます。その由来は諸説ありますが、この付近が仕置場であったことに起因するという説がありますが、現在では「首から上の病」にご利益がある地蔵尊として地域の住民に大切にされています。
(※2)キリシタンの迫害については「53.安倍川町(あべかわちょう)」に記載。
駿府キリシタン殉教之碑
弥勒の首地蔵尊