下桶屋町(しもおけやちょう 現在の昭和町・紺屋町)
地内の親孝行な桶職人が褒美をもらったまち
江戸時代に、桶を作る専門職人が居住していた区域のうち、林惣右衛門という桶職人の棟梁が住んでいた町を上桶屋町(現在の茶町と土太夫町に接した町)、もう一方を下桶屋町(現在の昭和町と紺屋町)と呼んでいました。両桶屋町の職人は、家康公が駿府城に在城していた頃、城内の台所で使用する桶などを作る御用を務めていました。
下桶屋町の謂れ
この町に住んでいた仁右衛門という貧しい桶職人のエピソードがあります。父の死後、彼は年老いた母との2人暮らしで、雨の日には体が不自由な母を背負って風呂屋まで行くなど、とても親孝行な人物でした。また、母が体を壊す前から、女房がいると親孝行ができないと結婚せずに禁欲生活を送っていた結果、明和4年(1767)に親孝行の手本として町奉行より褒美を貰いました。母が亡くなる前年にも老中より銀20枚を貰い、仁右衛門のように親孝行をよくする者は「孝子(こうし)」と呼ばれました(『静岡物語』『徳川家康と駿府城下町』より)。
江戸時代の君主は中国の政治理念を踏襲し、褒めるべき人は褒め罰する人は罰するという「信賞必罰」を実践しており、褒賞制度により「親孝行をした人」「農業に尽力した人」「地域のために尽くした人」などを褒め称えていたのでした(夢ナビ『民衆は褒めて統治せよ!~江戸時代の民衆の心をつかむ技~』より)。
寛政元年(1789)、江戸幕府は寛政の改革の一環として全国の農民・町人の善行表彰者の報告を命じ、それらを昌平坂学問所で編集して享和元年(1801)に「孝義録」として出版しました。このほか、各藩において独自の表彰制度もあったといいます。
下桶屋町から見た静清信用金庫本部・本店営業部方面
下桶屋町から見た紺屋町方面の町並み
元禄5年(1692)の『駿府町数並家数人数覚帳』によると、下桶屋町の当時の家数は12戸、人口は64人とされ、九十六ヶ町の中では規模の小さな町でした。上桶屋町が道を挟んで両側に展開しているのに対し、天保13年(1842)の『下桶屋町絵図』によると下桶屋町は江川町通りが突き当たった一区画だけが町になっていました。
昭和20年(1945)に昭和町と紺屋町に分割編入され、下桶屋町の町名は消滅しました。
下桶屋町と鍛冶町の境の町並み