両替町(りょうがえちょう 現在の両替町1,2丁目・七間町)
静清信用金庫が産声をあげたまち
駿府九十六ヶ町では両替町は一丁目~六丁目までありました。
町名は慶長11年(1606)この地に銀座が設けられ、金銀の両替商が置かれたことに由来します。当時は両替町二丁目に銀座役所が置かれ、他は役人の居宅であったとされています。家康公が京都伏見銀座を駿府に移しましたが、慶長17年(1612)には江戸の京橋へ移されました。現在の東京銀座のルーツは駿府の両替町にありました。
江戸時代の両替町は飲食店が立ち並んでいた訳ではなく、現在のような歓楽街に発展していったのは明治以降のことでした。
昭和20年(1945)両替町一~三丁目は両替町1丁目と七間町の一部に、両替町四~六丁目は両替町2丁目と平屋町の一部に再編成され、現在に至ります。
静清信用金庫の前身である「有限責任信用組合静岡共同金庫」が誕生したのが両替町でした。大正11年(1922)3月11日、両替町二丁目二十七番地に創設され、その後、中町、本通四丁目、両替町四丁目、七間町へと移転しました。昭和15年(1940)の静岡大火と昭和20年(1945)の静岡大空襲による2度の本店消失に見舞われながらも着実に事業を拡大させ、昭和26年(1951)信用金庫法に基づく改組により、現在の静清信用金庫となりました。昭和40年(1965)5月10日、本店を静岡市葵区昭和町2番地の1に新築移転し、現在に至ります。
昭和14年頃の静清信用金庫
昭和町に建つ静清信用金庫本部・本店営業部
駿府城公園内には、東京銀座から寄贈された柳の木があります。明治17年(1884)、銀座の街路樹は柳に統一されましたが、昭和42年(1967)頃から高度成長期の波に押されて姿を消していきました。これに心を痛めた地元の有志が保存活動に力を注ぎ、挿木で苗木を殖し、銀座はもとより全国各地に寄贈しました。静岡市も銀座のとりもつ縁により駿府城址の一隅に銀座の柳二世が植えられています。
駿府城公園内にある銀座の柳二世
柳の由来について
●こぼれ話 その1●
両替町一丁目は滑稽本『東海道中膝栗毛』の作者として知られる十返舎一九の生誕地であると伝えられています。十返舎一九はペンネームで本名は重田貞一(しげたさだかつ)、明和2年(1765)の生まれです。貞一の幼名が市九なのでここから一九とし、十返舎は大坂にいた頃に香道を学んだことから、10度焚いても香を失わないという名香「黄熱香」(十返しの香ともいう)からとったといいます。一九は駿府の下級武士の出身で、駿府町奉行から大坂町奉行に転身した小田切土佐守に従い大坂に移った後、浄瑠璃・歌舞伎脚本作家の近松門左衛門の門を叩き、浄瑠璃作家となりました。大坂から江戸に移り、享和2年(1802)から刊行が始まった『東海道中膝栗毛』『続膝栗毛』が好評を博し、21年間に正・続合わせて43冊も刊行されました。原稿料だけで生活できた最初の職業作家です。
十返舎一九生家跡伝承地
十返舎一九生家跡伝承地を示す木柱
●こぼれ話 その2●
両替町三丁目には「分時鐘」または「時の鐘」と称する鐘楼がありました。この鐘は、寛永11年(1634)に3代将軍家光公が明正天皇即位の式に列するため、上洛する際に駿府城下の町民へ米1万5千石を分け与えましたが、その時の残金83両と銀10匁(1両=銀60匁で換算、現在の1,081万円程)あり、将軍からの恩を忘れぬよう造られたという話が残っています。この鐘は昼・夜6時を報せるほか、火災など非常時の早鐘(警報)としての役割を担っていました。しかし文化4年(1807)新通大工町からの出火で時の鐘のお堂を焼失、梵鐘(ぼんしょう)自体も2度改鋳され、明治44年(1911)静岡市葵区にある音羽町清水寺に移されていましたが、太平洋戦争中に金属供出されました。