紺屋町(こうやまち 現在の紺屋町・伝馬町・昭和町)
徳川最後の将軍 慶喜公が住んでいたまち
紺屋町の名は、江戸時代初めに染物師(紺屋)の町として整備されたことに由来します。紺屋町は商人の町として栄えましたが、
天領(※1)を治める代官屋敷もここにありました。駿府城と城下町の造営という大事業を成し遂げた3人の重役のひとり、畔柳寿学(くろやなぎじゅがく)が代官として居住したのが慶長12年(1607)といわれてまちまいます。ここはのちに「紺屋町代官所」と呼ばれ、米蔵も置かれていました。
『駿府政事録(駿府城における幕府の政治録)』の慶長16年(1611)の記述によると、「この日駿府書院を造替せしめらる。畔柳寿学某其奉行たり」とあることから、畔柳寿学はおそらく建築家であり、また陰陽師も兼ねた高級技術官僚であったと考えられます。
(※1) 江戸幕府の直轄領。
静岡駅前に立つ家康公像
紺屋町の町並み
この代官屋敷は、大政奉還後の明治2年(1869)1月、静岡藩の勘定組頭を務めていた渋沢栄一(※2)によって、藩の商事機関「商法会所(しょうほうかいしょ:銀行と商社の業務を行う合本組織)」となりました。
(※2)農家から身を興し、のちに15代将軍となる徳川慶喜公に仕えた。その後、慶喜公の弟の昭武氏の随員としてフランスに派遣されたが、帰国後、静岡で蟄居謹慎となった慶喜公を慕って来静、静岡藩に仕官し、商法会所を開くなど、地域振興に尽力した。
明治2年(1869)10月、下魚町(現在の常磐町2丁目)にある宝台院で謹慎生活を送っていた「最後の将軍」慶喜公の処分が解かれると、商法会所(この頃は「常平倉(じょうへいそう)」と称していた)を常慶町(現在の常磐町2丁目)の教覚寺に移し、この場所を慶喜公の屋敷にあてました。この屋敷が現在の「料亭 浮月楼」です。
慶喜公は、平安神宮も手掛けたという名庭師 小川治兵衛を京都から呼び寄せ、浮月楼の屋敷南側に美しい池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)を作らせました。当時の浮月楼の敷地は約4千5百坪以上あったそうで(現在は2千2百坪)、敷地の半分以上が庭園でした。
徳川慶喜公屋敷跡の碑
料亭 浮月楼
浮月楼 庭園
慶喜公は、東海道鉄道(現在のJR)の開通による騒音を嫌い、明治21年(1888)西草深に移るまでの20年余をこの地で過ごしました。なお、慶喜公が住んだ家屋は明治25年(1892)1月9日の大火で惜しくも全焼しましたが、直ぐに二階建ての建物を再建し、6月には「浮月楼」と銘打って開業しました。
西草深町にある慶喜公屋敷跡の碑
一方、渋沢栄一は、来静翌年の明治2年(1869)10月、明治政府から大蔵省勤務の強い要請を受け、静岡に心を残しながら東京へ向かいました。
紺屋町は、明治22年(1889)の東海道鉄道の開通により静岡駅が至近に設けられて以来、市の中心として発展していきました。
昭和20年(1945)、一部が御幸町・伝馬町・昭和町となり、江川町・鍛冶町・下桶屋町・鳥見町・宝町・栄町一丁目の各一部を編入しました。
紺屋町の町並み