花陽院門前町(けよういんもんぜんちょう 現在の伝馬町・鷹匠2丁目)
竹千代の外祖母 源応尼が眠るお寺があるまち
「此町は元横田の内にて、寺門前なるに拠って然唱へ、寺へ続く地なり(『駿国雑志』より)」
花陽院門前町(※1)は伝馬町と鋳物師町に挟まれ、東海道に面し府中宿の一画を構成していました。町は明治5年(1872)誉田町と中八幡町に分かれましたが、現在は伝馬町と鷹匠2丁目の一部となっています。
(※1) 町名碑は「花陽院門前町」だが、現在の寺院名は「華陽院」
町名の由来となった玉桂山華陽院府中寺は、元は智源院(※2)と称し、家康公が竹千代と呼ばれていた今川家の人質時代(8歳~19歳)に、住職の智短和尚から学問を学んだ寺として知られています。3歳で母と生き別れた竹千代の親代わりとして駿府で養育にあたったのが外祖母 源応尼(※3)です。源応尼は孫の竹千代が天文20年(1551)駿府に送られると、智源院の近くに庵室を設けました。人質として寂しい生活を余儀なくされていた竹千代は源応尼から親身の愛情を注がれ、大いに心を慰められたといいます。
(※2) 智源院、知源院の両表記がある
(※3) 家康公の生母於大の方の生母お留の方
華陽院
華陽院御本堂
家康公お手植えのみかんの木
永禄3年(1560年)5月6日、源応尼が逝去したその時、成人していた家康公は今川義元上洛軍の先方隊として従軍していましたが、義元公の桶狭間での戦死をうけ、そのまま岡崎に帰国し戦国大名として自立しました。そのため敵国となった駿河国に入ることができず、源応尼の葬儀に参列できませんでした。
大御所となり駿府に戻った家康公は源応尼のために50年の法要を営み、法名「華陽院殿玉桂慈仙大禅定尼」に因み寺の名を玉桂山華陽院府中寺に改めました。それが現在の華陽院です。
華陽院には源応尼の墓と横並びに、家康公が65歳の時に授かった16人目の末子、5女・市姫(※4)の墓があります。
(※4)市姫が亡くなった年齢については、3歳、5歳、7歳と諸説ある。名前の由来は、織田信長の妹で絶世の美女といわれたお市の方のように美しくなってほしいとの願いを込めて市姫と名付けたといわれている。