毛皮町(けがわちょう 現在の駒形通4,5丁目)
技術の高さと必要性が買われた職人のまち
大永6年(1526)今川氏7代氏親公はこの地で皮革(ひかく)(動物の皮を加工したもの)の加工生産を始めさせました。戦国時代において皮革は「鎧」「兜」や「弓具」に至るまで、あらゆる武具に使用される欠くことのできない素材でした。
今川義元公が西上する前年に出した「来年買い上げ分の皮革を至急納入せよ」という文書が残っていることからも分かる通り、当時は大量の武具や馬具を必要としたため、皮革業の職人たちは各領主に掌握されていました。戦国大名は皮革加工技術優れた職人たちを保護し、職人たちも高い技術や知識で当時の戦国社会を支えていたのでした。
甲冑(かっちゅう)や武具に使用される素材として革の歴史はとても古いものです。甲冑自体は弥生時代の遺跡から木製の短甲(たんこう:上半身を覆う鎧の一部)の一部が発掘されていたり、革製の甲冑と思われる表現の埴輪(はにわ)も見つかっています。日本古代において獣魚鳥の皮や骨は現代人が考えるよりも貴重なもので、金属を使った甲冑や武具が登場する前は獣革や樹皮蔓、魚皮などが全盛だったようです。甲冑は防御具としてだけではなく、装飾による威儀的な役割も持っていました。やがて台頭した武家階級が改良した大鎧や銅丸(中・下級の徒歩武者の甲冑のこと)へと引き継がれていきます。
慶長5年(1600)、関ケ原の戦いの後、太平の世になると、武具としての皮革の需要は激減し、戦場の晴れ着である甲冑は、工芸的に贅を尽くした飾り甲冑となっていきました。そのため皮革業者の多くは失業しましたが、残った皮革業者は弓道用の韋(なめしがわ)や、衣類、袋物、雪駄(せった:わらじの裏に牛革を使用)、革の鼻緒やささら(竹を細く割って束ねた台所用品)などの日常の生活用品を作るなどしていました。
甲冑
横内町の関根某氏が作った菅笠(すげがさ)が大変出来が良いと評判になり、技術を覚えた笠職人が毛皮町で製造して生業としたことから、別名「笠屋町(かさやちょう)」とも呼ばれていました(『家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて』より)。
駒形通4丁目に建つ静清信用金庫駒形支店
明治4年(1872)白山町と町名が変わり、毛皮町の町名は消滅しました。
大正13年(1924)新通五丁目と六丁目に分割編入され白山町の名もなくなりましたが旧毛皮町だった部分は、昭和41年(1966)駒形通4丁目と5丁目に編入されました。
●こぼれ話●
革製品を扱う職人には武具だけでなく遊戯、芸能関係の太鼓師や三味線師、鞠師などもあり、地内にはこれらを使用する芸能者達も住んでいたそうです。太鼓や三味線を使う古典芸能といえば「能」「狂言」「歌舞伎」などを思いつきますが、能の歴史が一番古いことはご存知でしょうか。能と狂言は元を正せば同じものでした。奈良時代に中国から伝えられた「散楽(さんがく)」という物真似芸が発達し、平安時代には「猿楽(さるがく)」と呼ばれるようになり、更に観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)(※1)が活躍した室町時代には「式楽(しきがく)」と呼ばれるようになりました。大の能好きと知られた家康公は、当時豊臣家直属であった四座(よざ)(※2)を大坂から駿府に移し幕府で保護しました。現存する最古の能舞台は京都の本願寺(西本願寺)にありますが、もとは家康公の命で駿府城に造られたといわれ、後に本願寺に寄進されました。能と狂言を合わせた意味の「能楽」と呼ばれるようになるのは明治時代以降のことだそうです。歌舞伎は慶長8年(1603)、出雲の阿国(おくに)(※3)によって「かぶき踊り」が京都で興行されたのが始まりといわれています。
(※1)室町時代に活躍した、能楽の基礎を作ったとされる親子。日本で初めて職業としての芸能活動を行ったといわれている。父の観阿弥は観世流(かんぜりゅう)の猿楽者(滑稽な物まね芸や言葉芸で、狂言の原型を演じる者)で、息子の世阿弥は能役者であり能作者、能楽伝書の著者として知られている。
(※2)興行を行うために結成した芸能集団を「座」といい、観世流・宝生流・金春流・金剛流の四流派があった。
(※3)出雲大社の巫女を名乗る女性で、奇抜な恰好でおかしなことする「傾き者(かぶきもの)」の扮装やしぐさを取り入れた踊りで人気を博した。
地内にある法栄寺