御器屋町(ごきやちょう 現在の西草深町)
献上品の器を作る職人が住んだまち
江戸時代の地誌『駿国雑志』によると、家康公が駿府在城の頃に地内に中川屋某氏が住んでおり、諸役を免除され専ら食器を作って城中に収めていたため古くは中川町と呼ばれていました。御器屋町の町名は、御器(食物を盛る蓋つきの椀、食器)を作る職人が居住したことに由来するとされています。御器屋町は駿府城大手門の北西に位置し、慶長年間(1596~1615)の駿府町奉行・彦坂九兵衛文書には「草深の御器屋衆」とあり、もとは草深に含まれていましたが、後に御器屋町として1ヶ町をなしたと言われています(『駿河国新風土記』より)。地内には浅間神社の御器師も居住していたそうです。
駿河漆器 拭漆の器(静岡市ホームページより)
駿河漆器 変わり塗り(珊瑚塗り)の菓子器(静岡市ホームページより)
また『駿国雑志』には、この町の職人の手による浅木でできた椀の「浅木御定器」(雛飾りにあるような器)が献上されていたと記されています。御器は家康公だけでなく、頼宣公(家康公の10男)、忠長公(3代将軍家光公の弟)にも献上され、江戸時代を通じて諸役御免の恩恵を受けていました。徳川家への献上品の器を作る職人の町ということで、庶民が住む町名に「御」の敬称をつけて呼ぶに至ったそうです。
自治会名に「御器屋」が残っています
また地内にはかつて以心寺という庵寺があり、現在の安西小学校の前身として寺子屋教育が行われていたといいます。以心寺は明治に廃寺となり、その後の戦災で跡形もなくなってしまいましたが、区画整理の際に鉄筋2階建ての子安観音堂が復興されました。
大正13年(1924)一部が宮ヶ崎町に、昭和44年(1969)西草深町に編入され、町名は消滅しました。
子安観世音
御器屋町の町並み
御器屋町の町並み 上下草深町方面