安倍町(あべちょう 現在の安倍町)

由来は「安倍郡」?それとも「安倍氏」?

静岡浅間神社の南西に位置し、安倍川上流域や井川方面に通じる街道の起点で、安西通りと交差する場所にある町です。町名の由来は、家康公に仕えて数々の武勲を立てた、安倍奥(安倍口の奥地)の安倍元真(あべもとざね)が家康公から与えられた居宅があったからとも、古くからこの辺りが「安倍郡」の中心であったからとも伝えられています。

「安倍市」(あべのいち、市場のようなもの)は万葉集にも詠まれていて、奈良時代の和同年間(715年頃)には存在していたと考えられています。駿河国の産物や中央都市からの様々な品物が交換・売買された安倍市は、物資交流の中心として繁栄しました。

安倍町の謂れ

 

安倍元真は今川義元公に仕えた武将であり、今川氏から地名の安倍の姓を賜りました。永禄11年(1568)武田信玄公が駿河に侵攻し今川館を焼き払うと、義元公の後継である氏真公は掛川(現在の掛川市)に逃れました。信玄公が甲斐に引き上げた後、安倍元真は岡部正綱などと力を合わせ、今川館を奪還して立て籠もりました。翌年信玄公に再び攻められると、岡部氏は降伏して武田家に仕えましたが、元真は遠州の徳川家に援を求め、援軍とともに武田勢の数々の城を攻め武勲を立てたのでした。武田家滅亡後は家康公から、安倍町に五十間四方(※1)の屋敷を与えられました。

(※1) 一間(けん)=約1.8m。五十間四方=約2,450坪

安倍町の町並み 宮ヶ崎町方面

 

元真の孫、安倍信盛(あんべのぶもり)は1万9千石を領する大名となり、宝永2年(1705)武蔵国岡部(現・埼玉県深谷市岡部)に陣屋を築き、岡部藩が成立しました。

渋沢栄一(※2)はこの岡部藩の領内にあった血洗島村(ちあらいじまむら)、現在の埼玉県深谷市血洗島の生まれです。

(※2)渋沢栄一については、「②紺屋町(こうやまち)」に記載。

 

●こぼれ話●

10月末頃に静岡市で見られる「駿府お茶壺道中」は、家康公のために初夏に摘み取った茶葉を夏の間、冷涼な井川大日峠に設けたお茶壺屋敷で保管・熟成させ、晩秋に駿府城へと運ばせたという故事に倣っています。

「茶詰めの儀」により新茶がお茶壷に詰められ、封印されて井川のお茶蔵に運ばれます
(静岡市ホームページより)

 

お茶詰めの儀で新茶を詰めたお茶壷を井川のお茶蔵で約5ヶ月間熟成させます
(静岡市ホームページより)

 

皆さんご存じの「ずいずいずっころばし」という童謡は、このお茶壺道中を風刺した歌詞と言われています。「ずいずいずっころばし ごまみそずい」は胡麻味噌をせっせと手入れしているところにお茶壺道中が通りかかる様子を表しています。「茶壺に追われてトッピンシャ」で家の中に入り、戸をピシャリと閉めてお茶壺道中の一行をやり過ごすのです。お茶壺道中は権威の高いもので、茶壺が通行する際は、大名でさえ駕籠(かご)を降りねばならず、前もって街道沿いの町や村は清掃が命じられたり、その日は田畑の耕作も禁じられたといいます。「俵のねずみが米食ってチュウ」はその間、息をひそめて家の中で子供たちがじっとしているため、ねずみがお米を食べる音や声が耳に届いた、という意味なんだそうです。

秋を待って熟成茶となったお茶が詰まったお茶壷は久能算東照宮に運ばれて封印を解かれます

(静岡市ホームページより)