人宿町(ひとやどちょう 現在の人宿町1,2丁目・七間町)
宿が立ち並び、旅人たちで賑わったまち
駿府城の南西に位置するこの町の町名は、慶応年間まで宿が立ち並んでいたことに由来します。寛永3年(1626)の『御上洛御宿割帳』には「人宿町梅屋」との記載があることから、古くは隣接する梅屋町と一体で一ヶ町を形成していたといわれています。
今川氏の時代、この辺りは「今宿」と呼ばれ、すでに商人向けの旅宿があったとされています(『徳川家康と駿府城下町』より)。
人宿町通りの謂れ
慶長6年(1601)に東海道府中宿の一部となると、問屋場や本陣もできて諸大名の宿泊などで賑わいました。
横田町や伝馬町が荷物運搬に係る人馬中継のための宿駅として栄えていたのに対し、人宿町は商人のための宿屋が多くありました。しかし、慶安4年(1651)に隣接する梅屋町で由井正雪による慶安の変(※1)が起こると、伝馬町に本陣・脇本陣が移され、人宿町は宿泊地としての機能を失いました。この事件以後、旅人が伝馬町以外に宿泊する事は禁止されました。
人宿町一丁目の町並み
(※1)慶安の変については「㊸梅屋町(うめやちょう)」、由⽐正雪については「㉕宮ヶ崎町(みやがさきちょう)」に記載。
かつての人宿町は一丁目から三丁目までありましたが、昭和20年(1945)の区画整理により1丁目と2丁目に再編成されました。
人宿町二丁目の町並み
人宿町三丁目の町並み
●こぼれ話●
江戸時代には商売や参勤交代、流行だったお伊勢参りなど人々は様々な目的で旅をしました。それに伴って、三都(江戸・京都・大坂)や五街道(東海道・中山道・甲州街道。奥州街道・日光街道)を中心に多種多様な宿が発展しました。
寛永年間(1624~44)に宿駅に設けられた「本陣」は、公家や大名、幕府役人など、支配層の中でも上層の人々が宿泊しました。その他にも支配層向けの宿として、幕府や大名が設けた「御殿」や「御茶屋」がありました。対して、庶民のための宿の代表格は「旅籠屋(はたごや)」と「木賃宿(きちんやど)」です。旅籠屋は朝と夕の食事を提供する宿で、「旅籠」という言葉は食事そのものも意味していました。旅籠屋には庶民のほか大名が引き連れた多数の家臣なども宿泊し、宿不足から相宿になるケースもあったといいます。一方木賃宿は、宿泊客が自ら持参した食料を煮炊きするための薪の代金を払ったことからその名がつきました。そのほかにも、「商人宿」や「飛脚宿」など、特定の職業を得意先とした宿もありました(『江戸の宿 三都・街道宿泊事情』より)。
宿駅 伝馬町にある上伝馬本陣脇本陣跡の碑および駿府貫目改所跡の碑