大工町(だいくちょう 現在の大工町)
江戸時代の花形職業・大工さんのまち
駿府城大手門の南西に位置するこの町の町名は、江戸時代初期に大工たちが居住したことが由来となっています。古くは現在地から北に向かって町屋が続いていましたが、慶長年間(1596~1615)の町割りによって除かれました。その区域の住人たちは新通二丁目に代わりの土地をもらい「新通大工町」と称したため、元の大工町と区別して「上大工町」と称しました。
慶長の町割りで削られた部分は、武士の居住地として割り当てられたのではないかといわれています。大工は駿府城の建築に係る御用を務めたため、諸役が免除されていました。
しかしこの地には大工以外の者も居住しており、それは素人屋敷と呼ばれていました。素人屋敷の素人衆には諸役免除の特権は与えられず、町方の役を命ぜられました(『徳川家康と駿府城下町』より)。
大工町の町並み
大工町の町並み
江戸時代、普請(土木・建築工事)を担っていた大工は高給取りの花形職業でした。江戸時代の大工の給料は日当500文(※1)ほどでした。さらに、当時は駿府でも江戸でも火事が多く大工は大忙しだったため、大火の後で諸国から応援が来るまでの間は、日当が倍ほどに跳ね上がったといいます。また、昼食を含めて1日3回程度の休憩時間を取ったため、実働は約4時間だったそうです(『江戸の仕事図鑑 上巻 食と住まいの仕事』より)。
(※1)金1両=銅4000文。金1両=13万円で換算すると、500文=16,250円。
昭和15年(1940)の静岡大火で上大工町全域が焼失し、その後昭和20年(1945)の静岡大空襲でも再び全町が焼失しました。
戦後、昭和20年(1945)に大工町と改称されました。
大工町の町並み 本通四丁目方面
●こぼれ話●
地内の福泉寺には備考斎(びこうさい)の墓があります。備考斎とは、日本で初めて飛行具を発明し空を飛んだ浮田幸吉(うきたこうきち)(※2)のことです。墓には「嘉永4年(1851)没、68歳」と刻まれていて、これだと飛行したのは5歳くらいのときになるので、2代目の墓ではないかといわれています。
また、晩年は磐田市に移り住み、弘化4年(1847)に90歳で死去したと伝えられており、同市の大見寺(だいけんじ)にある「浮田氏墓所」と刻まれた墓が幸吉の墓だとされています。
(※2)浮田幸吉については「⑨江川町(えがわちょう)」に記載。
福泉寺
福泉寺にある浮田家の墓
お墓には「備考斎」の刻字