馬場町(ばばんちょう 現在の馬場町・富士見町・西草深町・中町)

町名の由来は馬術競技のための馬場があったから

『駿国雑志』によれば、家康公が駿府在城の頃、乗馬や馬術競技をする馬場があったことに由来しています。この馬場は浅間神社廿日会祭(はつかえさい)で流鏑馬(やぶさめ)が行われていましたが、明治維新後廃止されたそうです。現在、静岡浅間神社の廿日会祭は、毎年4月1日~5日に催され、稚児が舞楽を奉奏しますが、この起源は家康公が静岡市西北部にあった建穂寺(たきょうじ)に伝わっていた稚児能楽を気に入り、浅間神社の「お会式(えしき)」(※1)に奉納して、天下泰平・五穀豊穣を祈願したことによると伝えられています。現在の稚児舞楽では「振鉾」「納曽利」「安摩・二の舞」「還城楽」「太平楽」の五段の舞が奏でられ、稚児が優雅に舞い、県指定民俗文化財に指定されています。

 

(※1)人々を集めて説法などを行う行事のこと。祭事。

 

馬場町は、宮ヶ崎町とともに浅間神社の門前町として発展してきました。町名碑は浅間神社に続く浅間通り商店街(夢門前)に設置されています。

馬場町の謂れ

 

地内にある浅間神社参道案内表示と常夜灯

 

享保年間(1716~36)地内の茶問屋 長熊徳右衛門と宗右衛門は、安西三丁目の茶問屋とともに府中宿で茶を早くから商ったと伝えられており、現在の商店街の礎を担ったのかもしれません。

昭和3年(1928)以降、馬場町の一部が富士見町・西草深町・中町となり、追手町・車町の一部編入を経て現在の馬場町に至っています。

馬場町の町名碑と浅間通り商店街(夢門前)

 

諸外国との交流や国際貿易は、長政の死とともに終わりを告げました。

山田長政屋敷跡の碑

 

山田長政胸像